Se connecter大橋の所属する部署はつまり、その、まとめる側にいる。トーワグループ内に共通したシステムを導入させ、運用するのが仕事だ。ちなみに旗谷がいる事業部は、コンピュータシステムの管理を行っている。
「それで、何かあったんですか? 専務室に呼び出されたあと、不景気そうな顔をして戻ってきたら、みんな気になるじゃないですか」
みんな、と言って旗谷がフロアを指し示す。見ると、なるほど確かに、興味津々といった顔で部下たちが、まだ大橋のほうをうかがっている。
「上司思いの部下を持って、俺は幸せだね」
「――そうですね。感謝してほしいですよ」 書類を手に、
「出張中の経費の申請をするんで、判をお願いします」
差し出された用紙を手に取り、ざっと目を通す。最近は経理部も、経費の申請には何かとうるさいのだ。
「……土産の饅頭は?」
「食い物に気をつけないと、そろそろ糖が危ないんじゃないですか」 「あー、俺の部下は揃いも揃って、可愛い奴らだよ」大橋はポンッと判を押して、乱暴に用紙を放り出す。床に落ちる寸前で後藤が拾い上げ、大橋は残念がって大きく舌打ちした。
「子供みたいなことしないでくださいよ、補佐。今年で三十五でしょう」
「……歳を言うな」 「――で、何かあったんですか?」バカ笑いをしていた後藤が、次の瞬間には笑みを消し、真剣な表情で尋ねてくる。後藤の隣に立つ旗谷も同じだ。
大橋は寸前までの怒りを復活させ、乱暴に足を組み直す。「大ありだ。中間決算前に、とんでもないことを言い出しやがったぞ、うちの執行部共は」
「まさか……」前々から噂にはなっていたのだ。さきほど大橋が、専務室で告げられたことは。
旗谷がデスクに身を乗り出してきて、声を潜めた。「なら、本当にやるんですか? うちの会社の――本社の引っ越しを」
「引っ越しって、お前、住居を移るわけじゃないんだから、せめて移転と言え」大橋は不機嫌な声で応じると、受け取ったばかりの書類を二人の眼前に突き出して見せてやった。
「任命書だ。なんと俺は、移転推進実行プロジェクトのリーダーだ」
「マジっすか、それ」 「こんなタチの悪い冗談を、口が裂けても言うか」いっそのこと、タチが悪くてもいいから冗談であってくれと、心底思う。しかし現実は、上層部の印鑑どころか、会社の角印まで押された立派な任命書が、大橋の手にあるのだ。
さきほど専務室で告げられたのは、大橋がいる東和電器の本社を東京に移転させようというものだった。 今現在、本社は大阪にある。大橋自身は東京の出身で、『東京支社』で採用されて一年半ほど後に、本社に栄転となったのだ。以来東京と大阪を行き来し、部長補佐に昇格した一年前に、ようやく大阪勤務として腰を落ち着けた。 これからは本格的に関西弁使いにならないとな、と部下たちと冗談を言い合っていたのだが――。「関西弁、使うまでには至らないだろうな。移転は、来年の三月末の予定だ。お前らも東京に『帰れる』わけだ」
「……なんだか複雑ですね」旗谷が眉をひそめ、後藤も頷く。大橋は皮肉っぽく唇を歪める。
「俺は、感傷に浸る暇もない。今の役職の仕事を続けながら、引っ越しの準備を整えないといけないんだからな。……そりゃまあ、中年のオヤジ連中はやりたくないだろうな。こんな面倒で大がかりな仕事」
「離婚を二度経験して、今は独身というだけでも十分に不幸なのに……」 「――……余計な注釈を付けるな、旗谷。俺が不幸なのは認めるがな」「……わたしも、昨日初めて聞きましたよ。上がそんなことを計画していたなんて」 「プロジェクトリーダーはお前だそうだな」 ええ、と頷くと、高柳は煙草の箱をジャケットのポケットに突っ込む。「風当たりが強くなるぞ。営業の連中から」 「あなたも含めて、ですか?」 「いや、俺は正直、お前に同情している。上は、自分たちの身を犠牲にしたくないからこそ、お前に押し付けたんだ。もし何かあっても、簡単に責任を取らせられるようにと考えたんだろう」 そんなことは、専務室でプロジェクトのことを告げられたときからわかっている。しかも、自分と一緒に呼ばれた男の顔を見てしまったら、なおさらだ。 上の人間の悪辣ともいえる企みに、だから藍田は昨日から不機嫌なのだ。 藍田は淡々とした表情を崩さないまま、高柳に問いかける。「それで、わたしに用というのは?」 「お前の保身のために、相談に乗らんこともない。俺たちの利害は一致していると思わないか? 互いに守りたいものがある」 「――営業部門の事業部を一つでも多く残したいという、高柳さんの気持ちは理解できます。しかしそれは結局、あなたもわたしを利用しようとしているということでしょう」 高柳の頬がピクリと強張ったのを、藍田は見逃さなかった。「利用ではなく、協力であれば、いつでも受け付けます」 「藍田……」 呻くように呼んだ高柳が睨みつけてくるが、藍田は真っ直ぐ見つめ返す。「用がそれだけなら、わたしはこれで失礼します」 藍田は高柳を一顧だにせず、その場を立ち去る。 廊下を歩きながら、舌の上に苦いものを感じてうつむき、口中で呟いた。「高柳さん、わたしにとってはあなたも、上の人間なんですよ」 いまさら、味方のいない状況を嘆く気もない。ただ、任された仕事を淡々とこなすだけだ。 言い置いた言葉通り、すぐにフロアに戻ってきた藍田は自分のデスクにつく。広げておいたままにしておいた組織図を手に取って眺める。 高柳が何を危惧しているのか、その理由はわかっている。 事業部が統合によって減らされると、必ず行き場をなくした社員が出てくる。会社としては、タイミングを見計らって早期退職希望者を募り始めるだろう。藍田のプロジェクトには人事部の部長も噛んでいる。 そのうえ、事業部の数の変化はそのまま、部門内でのパワーバランスが崩れるこ
眼差しに見合った、精悍な面構えだ。女性にとっては、魅力的なハンサムという評価が下せる容貌らしいが、藍田の感想は、二十代後半でこの個性の強さなら、あともう少しすれば手に負えなくなるかもしれない、というものだ。 なまじ仕事ができるうえに、一癖も二癖もある性格だけに、扱いにくい男だ。「――さっそく、偵察が入りましたか?」 クリップボードで口元を隠しながら、堤に抑えた声で問われる。藍田は無表情に見つめ返す。「なんのことだ」 「とぼけるなんて、藍田さんらしくない。昨日、藍田さんが専務室に呼び出されてから、あっという間に広がりましたよ。本社の移転の話」 「ああ……、そっちのプロジェクトのことか」 「そっち?」 訝しむように堤が眉をひそめる。本社が東京に移転する話は、ずいぶん前から噂にはなっていたので、知っている社員は多い。 だが、藍田が任された事業部の統廃合については、一般社員の耳にはほとんど入っていないだろう。管理部門はともかく、営業部門に走る動揺が大きいのだ。 藍田は無表情に堤を見つめ返し、端的に答えた。「そっち、だ。――少し席を外す。わたし宛てに電話が入ったら、すぐに戻ると伝えておいてくれ」 さっさとオフィスを出た藍田が向かったのは、エレベーターホールだった。 お互い忙しい体なので、わざわざ一階のカフェテリアまで移動してコーヒーを飲みながら、というわけにもいかない。きれいな女性が相手ならともかく、仏頂面の藍田と向き合ってコーヒーを飲んだところで、相手も美味しくないだろう。 エレベーターホールの一角にある窓の前には、休憩用のイスが置かれている。観葉植物によって自然な目隠しが作られているので、外の景色を眺めながら密談ができるというわけだ。ただし、禁煙スペースになっている。 軽く周囲を見回してから藍田がそのスペースに入ると、煙草の箱を手の中で弄ぶ高柳の姿があった。一般の社員なら、その姿を見ただけで回れ右して逃げ出すという、本社屈指の強面だ。「お待たせしました」 藍田が声をかけると、高柳がちらりと視線を上げる。険のある鋭い目をしてはいるものの、中年の渋い俳優を思わせるほど顔の造作は悪くない。が、とにかく剣呑とした雰囲気を漂わせすぎる。 トーワグループには三つのマーケティング本部があり、その中で東和電器のマーケティ
**** 決して顔には出さないが、藍田春記の機嫌は昨日から最悪だった。 もっとも、藍田の無表情から心理状態を推し量れるような人間が、この社内にいるはずもない。そしてまた、自分の心中を他人に推し量られるなど、藍田のプライドが許さない。 組織図をデスクの上に広げ、藍田はじっと見つめる。昨年度に改編版が発行され、わざわざ広報課に頼んで手に入れたものだ。 組織図を見れば見るほど、腹が立つほど複雑で大きな組織だ。これが、トーワグループだ。おそらく一般の社員の中で、この組織図を完璧に把握している人間は少ないだろう。自分たちが関係する支社や事業部さえ理解していれば、仕事にまったく支障は起こらないからだ。 ただし人事についてはそうもいかない。おかげで毎年どこの部署も、人事異動の時期には、関係事業部の名簿や座席表の作り直しの作業で大忙しだ。そうしないと、何かあったときの問い合わせに手間ばかりかかってしまう。 それもこれも、製品ごとの分社化と、数ばかり多い事業部制のせいだ。 どうにかしてほしいとは、東和電器に入社していたときから思っていた藍田だが、来期からその願望が叶うことになった。大幅な事業部の削減――統廃合が行われることが決定したからだ。 誤算だったのは、考えるだけで頭が痛くなってくる改革を、自分が任されることになったという一点のみだ。 藍田が現在持つ肩書きは、新機能事業室副室長だ。トーワグループを複雑な組織にしてしまった戦犯ともいえるのだが、本社・支社からもたらされる事業に関する報告を、あらゆる方向から数字で計測し、分析する部署だ。 こういう表現をするとわかりにくいが、ようは他人の意見を、会社にとって有益か否か判断する材料を揃えるのだ。そのとき資料として提示した数字の結果によって、新しいプロジェクトの起動、新しい事業部の設立が決まる。 そんな部署にいる藍田に、昨日付けで新たな肩書きが加わった。『事業部統合に関する管理実行プロジェクト』のリーダー、だ。 実のところ事業部の『統廃合』が正確なのだが、廃合という表現は反発を招く恐れがあるため、上層部の判断で伏せられた。 くだらない配慮を、と思った藍田だが、当然口には出さない。ムダ口は嫌いだ。 それに、こういったつまらない配慮が積み重なって、今の複雑な組織が出来上がったという経緯も頭に
もっとも離婚の原因は、仕事の忙しさから妻をかまわなかった大橋にも原因がある。 最初の妻は浮気に走り、二度目の妻は寂しさから実家に戻ってしまい、そのまま離婚に至った。二人の妻との間に子を作る暇すらなかったというのは、結果としてよかったのか、独身の今となってはよくわからない。 厄介な仕事という不幸を押し付けられた大橋だが、実は心の支えがある。それは、優しく癒してくれる女の胸でも、将来の出世の確約でもない。 大橋は思わず低い笑い声を洩らす。「補佐、大丈夫ですか?」 旗谷の問いかけに軽く手を上げて応じ、大橋はイスをくるっと回転させると、体の正面を大きな窓に向ける。 有名な建築デザイナーが設計したという東和電器本社のビルは、少し複雑な形をしている。中庭を挟んで、同じフロアにある新機能事業室を見通すことができるのだ。 その新機能事業室の窓際には、ある男のデスクがある。ちょうど今はビルの影に入って陽射しが届かないため、ブラインドは下ろしていない。「藍田副室長が、どうかしたんですか?」 大橋と同じ目線の高さまで腰を屈めて、後藤が窓の外を覗く。二人並んで、デスクについている藍田の姿を眺める。 新機能事業室副室長、藍田春記。年齢は三十四歳で、大橋の一年後輩になる。三年前にこの本社に異動になり、副室長に就いたのは約一年半前。大橋とは違い、本物のエリートといえる。 何より藍田は、離婚歴がないどころか、いまだ独身だ。これだけで、大橋と藍田に対する評価は違ってくる。同じ出世コースに乗っているようで、この評価の違いはけっこう大きい。「――イイ男ですよねー。藍田副室長」 大橋の目線の高さに腰を屈めて、旗谷がしみじみと洩らす。「イイ男の隣で、そういうことを言うか、旗谷」 「あら、妬かないでくださいよ、補佐。イイ男には二種類あるんですよ。実用的なイイ男と、観賞用のイイ男。補佐は、前者ですね」 「……女は怖いねー。後藤よ」 「俺はまだ、補佐ほど女の怖さは経験していないんで」 こいつらは本当に、俺のことを上司だと思っているのか――。 横目で部下二人を見た大橋は唇を引き結ぶと、改めて、向けられている藍田の横顔を離れた場所から眺める。 白皙の美貌、という鳥肌が立ちそうな表現が、これ以上なくしっくりくる
大橋の所属する部署はつまり、その、まとめる側にいる。トーワグループ内に共通したシステムを導入させ、運用するのが仕事だ。ちなみに旗谷がいる事業部は、コンピュータシステムの管理を行っている。「それで、何かあったんですか? 専務室に呼び出されたあと、不景気そうな顔をして戻ってきたら、みんな気になるじゃないですか」 みんな、と言って旗谷がフロアを指し示す。見ると、なるほど確かに、興味津々といった顔で部下たちが、まだ大橋のほうをうかがっている。「上司思いの部下を持って、俺は幸せだね」 「――そうですね。感謝してほしいですよ」 書類を手に、後藤がデスクの前までやってくる。この男は、オフィス企画部第一企画室の所属で、大橋の直属の部下ともいえる。 システム講習会のため、昨日から今日の午前中まで出張しており、たった今戻ってきたらしい。袖を捲り上げたワイシャツが、汗でぐっしょり濡れている。「出張中の経費の申請をするんで、判をお願いします」 差し出された用紙を手に取り、ざっと目を通す。最近は経理部も、経費の申請には何かとうるさいのだ。「……土産の饅頭は?」 「食い物に気をつけないと、そろそろ糖が危ないんじゃないですか」 「あー、俺の部下は揃いも揃って、可愛い奴らだよ」 大橋はポンッと判を押して、乱暴に用紙を放り出す。床に落ちる寸前で後藤が拾い上げ、大橋は残念がって大きく舌打ちした。「子供みたいなことしないでくださいよ、補佐。今年で三十五でしょう」 「……歳を言うな」 「――で、何かあったんですか?」 バカ笑いをしていた後藤が、次の瞬間には笑みを消し、真剣な表情で尋ねてくる。後藤の隣に立つ旗谷も同じだ。 大橋は寸前までの怒りを復活させ、乱暴に足を組み直す。「大ありだ。中間決算前に、とんでもないことを言い出しやがったぞ、うちの執行部共は」 「まさか……」 前々から噂にはなっていたのだ。さきほど大橋が、専務室で告げられたことは。 旗谷がデスクに身を乗り出してきて、声を潜めた。「なら、本当にやるんですか? うちの会社の――本社の引っ越しを」 「引っ越しって、お前、住居を移るわけじゃないんだから、せめて移転と言え」 大橋は不機嫌な声で応じると、受け取ったばかりの書類を二人の眼前に突き出して見せてやった。「任
足を引きずるようにして、大橋龍平は自分の部署であるオフィス企画部に戻った。 どんよりとした空気が大橋を取り巻いているのを、他の社員たちは感じ取ったらしく、何事かといった様子で、いくつもの視線がスーツを通して全身に突き刺さる。 親しみやすい上司であり、魅力的な男を演出するため、常に清々しい笑みを絶やさないよう心がけている大橋だが、今この瞬間は、むっつりとした表情以外できなかった。 偽らざる、今の大橋の心境だ。「――どうなっちまったんだ、うちの会社は」 アホじゃねーか、という言葉は、寸前で呑み込む。 肩書きもなく、背負わされた責任も軽い若手社員ならともかく、大橋は現在、三十五歳にして、東和電器株式会社・オフィス企画部部長補佐という立場にいる。軽々しく、人目がある場所で会社批判などできない。 窓際の自分のデスクに戻ると、手にしていた書類一枚をポイッと投げ置く。大きく息を吐き出しながらイスに腰掛けた。 イタリア製だとかいうイスは、多少乱暴に扱っても、大柄な大橋の体をしっかりと受け止めてくれる。 出世してよかったと思えた出来事は、イスがランクアップしたということぐらいだ。 八つ当たりに近い気持ちでそんなことを思った大橋は、イスに深くもたれかかって足を組むと、ふんぞり返る。 大橋の上司が見たら眉をひそめそうな姿だが、あいにくこのフロアの主は、他ならぬ大橋だ。それに、もし仮に誰かが注意してきたら、ためらうことなくこう言っているだろう。 端然とした上司の姿など、この心境で保てるか、と。「あー、イライラするっ」 ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら、デスクの上に置いた書類を忌々しく睨みつける。さきほどまで呼び出されていた専務室で受け取った書類だ。「……こんな紙切れ一枚で、人を地獄に叩き落しやがって」「補佐、コーヒーいかがですか?」 上の位置から声をかけられ、大橋は動きを止める。そのタイミングを見計らって、スッとデスクの上にコーヒーが置かれた。「気がきくな、旗谷。お前がコーヒーを入れるなんて、残暑厳しいこの季節に、雪が降るかもな」 顔を上げ、大橋はニヤリと笑いかける。自分の分の大きなカップを手にした旗谷弥生は、心外だと言いたげに、きれいに口紅の引かれた唇を尖らせた。「うちのセクハラ対策委員会に